まさかあの著名人がこんなにも身近だったなんて!!江戸川乱歩散歩 後編
2013年12月26日
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■ 乱歩と鶴舞の関係
乱歩の作品にはたびたび鏡や万華鏡、望遠鏡、双眼鏡、
パノラマ装置といった視覚装置が登場します。
乱歩散歩前編で書いた「押絵と旅する男」では、
押絵の人形が動き出すトリックにあらわれているんですよ。
そのきっかけとなったのが、乱歩が16歳の1910年に
鶴舞公園で開催された博覧会「第十回関西府県連動共進会」。
ちょうど名古屋開府300年にあたる年です。
■この博覧会って?
「第十回関西府県連合共進会」
漢字ばかりで堅苦しく思えるこの博覧会、どういったものなんでしょうか。
明治時代は、「殖産興業」を国家のスローガンに掲げており、
この博覧会は、その政策のひとつでした。
3府28県からの参加があり、出品物は約13万点、
来場者は、会期90日間で延べ約260万人!
第九回関西府県連合共進会の来場者は約78万人、
また、当時の名古屋市の人口は40万人前後といわれていますから、
その集客力の凄さがうかがえます。
会場は、約10万坪!
ナゴヤドーム約7個分です。
現在の鶴舞公園そのままかと思いきや、
今の名古屋大学鶴舞キャンパスの敷地も含んでいたそう。
この会場には機械館、特許館、農産館、林業館、不思議館、空中天女館、
活動写真館、台湾館、世界一周館などたくさんのパビリオンが建設されました。
西洋建築様式のパビリオンに、金閣を模した迎賓館、
エンターテイメント性の高い展示、夜は電灯によるイルミネーション。
当時、周りには田んぼが広がっていたので、
その中に突然現れた大きく特徴的な建物やきらびやかな灯りという
異様な光景に人々は大変注目したのではないでしょうか。
奏楽堂前にあった立て看板。
右下の写真を見ると当時の賑わいがわかりますよ。
■乱歩 博覧会での衝撃的な出会い
乱歩は、パビリオンの中でも「旅順海戦館」に大きな影響を受けたそう。
キネオラマ(キネマとパノラマの合成語。パノラマの背景に
色彩や光線をあて、景色をいろいろに変化させてみせる装置)を
応用した見せ物です。
乱歩曰く、
「幕が開くと、舞台一面の大海原だ。一文字の水平線、上には青空、下には紺碧の水、それがノタリノタリと波うっている。ピリピリと笛が鳴り、一とわたり兵士の説明が済むと、舞台の一方から東郷艦隊が旗艦三笠を先頭に、勇ましく波を蹴って進んでくる。ひるがえる旭日旗、モクモクと立ち昇る黒煙、パノラマ風の舞台で、おもちゃの軍隊が、見ているうちにさも本物らしく感じられる。
やがて、反対の方から、敵の艦隊が現れる。そして、始めは徐々に、次には烈しく、砲戦が開始せられる。耳を聾する砲声、海面を覆う白煙、水煙、敵艦の火災、沈没。
それが済むと夜戦の光景となる。月が出る。今いうキネオラマとかの作用で、月の表を雲が通り過ぎる。船には舷燈がつく、燈台が光る。それが水に映って、キラキラと波うつ、大宝が発射されるたびに赤い一文字の火花が見える。船火事の見事さ。」。
聞いているだけで、心が弾んできますね!
また、
「それを見た翌日、私と私のもっとも仲好しであった友達とは、
さっそく、私の部屋へその真似事を作る仕事に取りかかったものである。」
と語ったほど。興奮がこちらまで伝わってきます。
旅順海戦館があったのは、現在の名古屋大学鶴舞キャンパス。
医学部の正門があるこの辺りだったようです。
■名古屋が変わっていく
さて、この博覧会を契機につくられたのが
名古屋市第一号の公園、鶴舞公園なんです。
ここで一際目を引く建築に奏楽堂、噴水塔がありますね。
これは、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)教授で、
鈴木禎次によって設計されたもの。
まずは、奏楽堂。
これ、どこかで見たことがありませんか。
そうです、さきほど登場したこちらなんです。
(看板の写真を拡大しました)
当時は木製。
一度デザインが違うものになりましたが、老朽化に伴い、
1997年に元のデザインに復元されました。
西洋風の建築に、着物姿の人々。まさに明治時代。
共進会では、正面広場を飾っていました。
一時、地下鉄工事のため撤去されましたが、1977年に復元されました。
夜はライトアップされ、いい雰囲気。
どちらも建築物自体は復元されたものでありますが、
100年以上前も同じ景色を見られたのですから、
その重要性や人の思いは、今も昔も変わらないのですね。
■名古屋の風景を変えた禎次
ところで、鈴木禎次さんってどんな方…と調べていったら、
名古屋の風景を変えた人物だといわれているんだそうです。
他にも旧名古屋銀行本店(旧三菱UFJ銀行貨幣資料館)や
揚輝荘(ようきそう)の市指定有形文化財である伴華楼(ばんかろう)
などを設計しています。
(ちなみに、夏目漱石の義弟(相婿)なんですって)
前を通る度に気になっていたこの建物。
こちらが、旧名古屋銀行本店(旧三菱東京UFJ銀行貨幣資料館)。
広小路通に面していて、長者町繊維街の看板横にあります。
■建物だけじゃない、名古屋の発展
また、この博覧会は、名古屋の近代化の契機となりました。
道路では、上前津から鶴舞公園、新栄町から鶴舞公園への8間道路が新設。
電車では、名古屋鉄道や名古屋市営地下鉄の前身である名古屋電気鉄道が
日本で2番目の路面電車を開通させ、
上前津〜鶴舞公園〜新栄町間を走る公園線を開業。
他にも熱田駅前から築地口を結ぶ築地線、押切町から柳橋までの枇杷島線を
開業していきました。
博覧会といえば、記憶に新しいのは愛・地球博。
このときも、中部国際空港(セントレア)開港、リニモ開通と
名古屋の発展につながっていますよね。
また、交通インフラが整備されただけではなく、ビアホールまで現れました。
第一次世界大戦でドイツ人捕虜の収容所ができたのがきっかけで、
盛田善平が敷島製パンを創業したんですが、その盛田が敷島創業以前に、
中埜酢店の4代目中埜又左衛門らとともにつくったのがカブトビール。
ビアホールは2階建ての洋館で、納屋橋の東側にあったそう。
そして、名古屋初のデパートであるいとう呉服店(現松坂屋)が、
現SKYLEの位置に開店しました。
ルネサンス風の3階建ての洋館で、店頭の道路は人でいっぱい、
店内を人が埋め尽くすほど大盛況だったようです。
ちなみに、こちらも禎次の設計です。“名古屋人は博覧会好き”といいますが、
博覧会開催でまちは発展、活性化し、賑わっていったと
言っても過言ではないほど、名古屋には重要な意味あるんですね。乱歩と乱歩ゆかりの名古屋のまちを見てきましたが、
少し意識を変えるだけで、少し見方を変えるだけで、
まちがいつもとは違って見えてきます。
同じ場所に同じものが存在し続けているように
変わらないものがあることからも、
同じ場所でもかつてはあれが、またかつてはこれがあり、
と移り変わりがあることからも、
まちの歴史の重みを感じずにはいられない、江戸川乱歩散歩でした。