大須でよく見かける「赤門」のルーツは、大光院にあり

2014年2月26日   

th_R0011245
大須を歩いていると絶対1回は見かける文字があると思います。
「赤門」。…ありますよね?
この赤門、赤門通をずっと西にいき、本町通を越えたところで見ることができます。赤門通という名前も、大光院の山門から名付けられました。戦災で創建当時のものは失われてしまいましたが、昭和41年に再建。
きれいな朱色の門が、参拝する人々を迎えてくれます。

th_R0011143
山門をくぐってすぐ真正面に見えるのが、明王殿。
その左側にあるのが本堂です。

th_R0011161
大光院は、1610年の清須越の際に、現在の場所に移転しました。
今は南を向いて建っている本堂ですが、当時は本町通に向かって建っていました。
掘り下げていくと面白い話がいくつかありましたので紹介します。

th_R0011179
本堂が本町通を向いていた頃、本堂から向かって左側がお手洗い、右側がお風呂になっていました。
ある時、修行僧が、本堂側にではなく左側に毎日手を合わせていたのを見た人々が、ご利益があるんじゃないかということで、お手洗い側に手を合わせるようになり、このような慣習が生まれました。

th_R0011181
ちなみに、なぜ修行僧はお手洗いの方に向かって手を合わせていたのでしょうか?
これは、烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)という、人々のあらゆる穢れ(けがれ)を浄める力を持っている尊像をお手洗いに近い回廊に祀っていたため、そこに向かって手を合わせていたのでした。
その慣習が広まり盛んになってきたため、1808年にお堂を建てて、この明王様を安置しました。今の明王殿です。大光院が「下の神様、トイレの神様、女の神様」として知られているのは、こういった経緯があったんですね。
ちなみに、この時点で明王殿は本町通から見ると左側にありました。現在は、右側にありますね。この話はのちほど。

ennichi2
さて、それから、江戸末期に大須に遊廓ができました。
遊女は、基本的に外に出ることができません。しかし、唯一許されたとされるのが、大光院での縁日でした。
先に述べたように、大光院の明王様は「女の神様」として知られているため、自身の体の健康を願うとともに、縁日の賑わいを感じ、気持ちをリフレッシュさせていたのでは、と言われています。遊女が多く訪れる大光院の縁日は、とても賑わっていたんだそう。
今でも毎月28日は縁日が行われています。

th_R0011146
明王殿は、昭和初期までは1808年に建てられて以来、本町通から見て、左側にありました。
しかし、昭和初期の区画整理により、今の右側(南向き)になりました。今のようになったのは、昭和初期だったんですね。
その後、戦争の空襲により諸堂が焼失してしまったため、1957年に木造で再建しました。
今の大光院は、雰囲気を崩さないように鉄筋構造で建て直されたものです。

th_R0011241
鉄筋に建て直す際、地面を土ではなく、石舗装にしました。これは、縁日のときに露天商がお店を出すため、とご住職がお話しくださいました。
最近だと、秋に大須界隈で開催される、大須大道町人祭の会場としても親しまれています。平らな場所なので、大道芸人にとってはやりやすいと言われているそう。会場の広さも、広すぎず、狭すぎないので、芸人の方々からもとても評判が良いと話されていました。お客さんの反応を感じやすい、というのも好評な要因だそう。

th_R0011237
大須といえば、お店が軒を連ねる商店街をイメージする人が多いかと思います。商店街から少し離れた大光院が会場になることで、線であった商店街が、面の「大須」へと変貌をとげたのは、大光院の存在が大きく影響しているのかもしれません。


facebook

twitter

form

やっとかめ文化祭

City of Nagoya