Journal NAMO.取材こぼれ話ー大須案内人 吉田さんー

2014年3月31日   

3月に創刊されたNAMO.情報誌の最新号であるJOURNAL NAMO. No.2
この号では“伝統文化”に焦点をあて、主人公の「僕」が名古屋のまちを巡ります。
その誌面では伝え切れなかった取材こぼれ話も興味深いんですよ。

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大須商店街で青い法被を着た方を見かけたことはありますか?
土曜・日曜日に、来街者からの大須内の質問に応えている大須案内人さんです。
その一人である吉田さんは生粋の大須人で、代々続く三味線屋「浅田屋」の6代目なんです。
 
浅田屋さんは1803(享和3)年に創業し、今年で211年になる老舗。
大須公園付近に久宝寺というお寺があるのですが、その門前を十六両で分けてもらった初代の浅田屋太右エ門氏がその土地で始めたのだそう。

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こんなにも由緒ある家の出身だけれど、吉田さんが大須の歴史を意識し始めたのは一昨年。
ちょうど秋の大須大道町人祭の委員長を担ったのをきっかけに大須について調べ始めたんだそう。

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お祭りを担当するんだったら徹底的に歴史を掘り返してみようと調べていくうちに面白いことが見えてきたんだとか。
例えば、大須や覚王山で開かれるお祭りに“享保の象”というパフォーマンスをする方がいて面白いと思っていたけれど、
そもそも享保の象って何だろうと調べてみると、約200年前に本町通(熱田から名古屋城までを結ぶ南北の通り)を通っていることが判明。
「徳川吉宗が、ベトナムからつがいの象を輸入したんだ。
そのうちの1頭が長崎港から江戸へ向けて歩いたんだけど、その途中に本町通を通っていることを知ったんだわ。」
 
実はこの享保の象、3月15日に開催したNAMO.のイベント「盛りのBA・BA・BA」でも、パフォーマンスしていただきました。

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さて、三味線に話を戻します。
浅田屋さんの初代が三味線という文化を発展させようと思った、その始まりは何だったのでしょう。
尾張藩第7代藩主である徳川宗春の時代、名古屋のお寺の境内では芝居や相撲などが行なわれていました。
また、宗春は遊郭の設置を許可しています。
「そういうところで三味線も使うだろうし、初代もここでなら三味線の需要があるだろうと思ったんじゃないでしょうか。」。
当時はこの宗春のおかげで、三味線をはじめ伝統芸能はとても身近なものだったんですね。

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(こちらは、イベント「盛りのBA・BA・BA」に出演してくださった三味線奏者のたなかつとむさん)
 
それでは、今はというと、
「大須で伝統文化を感じられるのは、お祭りなどの特別なときに山車が出て笛や太鼓が聴けるときくらいかな。
大須に限らず、名駅(名古屋駅)の芸子さんも縮小している。
長唄にしても、興味を持ってお稽古を始める人はすごいスピードで減っている。
三味線の材料も海外に依存するようになって入りづらくなったし、輸入しても商品のクオリティが低い上にコストが高い。
そうすると、ますますお客さんが遠のいていく。」
 
やはり、現代では、若者に限らず、なかなか伝統文化を身近に感じられなくなっていることをその最前線で切実に感じているんですね。
「能だって面白いけど見る機会がないから、その遊び方を知らない人が多いんだよね。
伝統文化は存続が危ういということだけでも、若い人にも知ってもらえればと思う。」

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それでも、400年前も今も、その当時の最先端・求めているものを発信しているという本質はそんなに変化していないような気がします。
「大須に特化すると切り口が狭まるけど、名古屋でいうと伝統文化も技術もちゃんと残っているもんね。」

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(大須観音敷地内にある「大正琴発祥之地」石碑)
 
さて、大須に生まれ育った吉田さんは大須とその後についてどう考えているのでしょうか。
「大須のおやじたちって、いつの時代もDNA的にアホで子どもみたいなやつばっかりなんだよね。
祭り好きで、驚かし好き。
栄や名駅とは全然雰囲気が違うし、他には真似できない土地柄。
俺はそれを大事にしていかなきゃいかんなと思っています。」
 
こうして名古屋とその歴史・文化を盛り上げようと考える方はまだまだたくさんいます。
私たちは、それを積極的に自分の足で知ろうとしなかっただけなのかもしれません。
形が変わることがあっても、そこにある空気感だとか昔からのものを大事にする姿勢は忘れたくないですね。


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